良い音楽を聴くために(10)音楽の基礎 芥川也寸志

”少なくとも、昨日と今日は違う。今日と明日も、きっと違うだろう。
いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことはできる。”



良い音楽を聴くためには、作り手や機械に頼るばかりではなく。
聴き手の努力も多少は必要かな、と急に思い立ち、
いまさらながら音楽の基礎を学ぶ努力なぞしてみました。

テキストとして選んだのは、芥川也寸志の「音楽の基礎」。
芥川也寸志は、かの芥川龍之介の実子(三男)で、
昭和期を代表する作曲家でありながら、
某音楽関係団体のトップとして実務家としての手腕も発揮された、
多才の人です。

音楽の基礎 (岩波新書)

音楽の基礎 (岩波新書)


その芥川也寸志が、一応一般向けに書いたとされる音楽理論書が本書ですが、
確かに小・中学校の音楽の授業で出てきそうな本当の基礎的な話もありつつ、
でも、正直、私のような素人にはついていけないような高度な話も結構あります。

現代音楽の作曲家、あるいは職業作曲家といわれるような方々というのは、
もちろん感性による部分が大部分でしょうが、
それとは別に、多分に理論的・数学的能力も必要とされるようです。

楽家、特に作曲家、さらに現代音楽の作曲家には、
結構高学歴の方が多いな思ったことがありましたが、
本書を読んで少し納得しました。

本の中にも書いてありますが、特に後半の和音の話などは、
実際に音を出してみないと、
素人にはとても文字と楽譜だけでは意味が分かりません。

一応ピアノはあるんだけどな。。さぁ、どうしようかな。



(word by 芥川也寸志 from 「音楽の基礎」)

真の静寂は、日常生活の中には存在しないまったく特殊な環境ではあるが、
この事実は音楽における無音の意味、あるいは、
しだいに弱まりつつ休止へと向かう音の、積極的な意味を暗示している。
休止はある場合、最強音にもまさる強烈な効果を発揮する。
我々がふつう静寂と呼んでいるのは、
したがってかすかな音響が存在する音空間を指すわけだが、
このような静寂は人の心に安らぎをあたえ、美しさを感じさせる。
音楽はまず、このような静寂を美しいと認めるところから出発するといえよう。

音楽は静寂の美に対立し、それへの対立から生まれるのであって、
音楽の創造とは、静寂の美に対して、
音を素材とする新たな美を目指すことの中にある。

音楽の鑑賞にとって決定的に重要な時間は、
演奏が終わった瞬間、つまり最初の静寂が訪れたときである。

静寂は、これらの意味において音楽の基礎である。

音の高さとは、その振動数によってきめられるものではあるが、
ある一定の高さの音が、ときには、
物理的な高さとは異なる印象を人に与えることがある。
たとえば、女性が低い声で、ある高さの音を歌ったとする。
今度は男性が、全く同じ高さの音を歌うと、
女性の声は低く、男性の声は高く感じられる。
この物理的音高と印象の上の音高とが異なるという現象は、
音楽における表現の上で、きわめて大きな意味を持っている。
実際にはオーケストラの全音域よりも、
ピアノの持つ音域の方が広いにもかかわらず、
一般的にはオーケストラの音域の方がはるかに広いと思われているのも、
このためである。

音の強さ、大きさは、純粋に聴覚の領域でありながら、
視覚の介入によって印象上の強さや大きさが変わってくる。
この事実は、音楽とは関係のない妄想にふけりたい時や、
風貌の気に入らない演奏家であったときを除いて、
コンサートで目を閉じて音楽を聴くのは、まったく意味がないばかりか、
作曲家の意図を誤解して聞き取る危険があることを示している。

音の高さの判別力は、音色によってかなりの差が生じる。
大都市では、役所の屋上などに設けられたスピーカーから、
鐘の音に似せた電気的発信音による簡単な旋律で、
時刻を告げるのをよく聞くことがあるが、
おおむねひどい調子っぱずれであるにもかかわらず、
さほど気にもならずに聞き流せるのは、
その音色によるものである。
もしあの旋律が、音の高さを判別しやすいほかの音色で奏でられたら、
市民はその音が鳴るたびに、
気が狂わんばかりのいらだたしさに襲われるだろう。

リズムはあらゆる音楽の出発点であると同時に、
あらゆる音楽を支配している。
リズムは音楽を生み、リズムを喪失した音楽は死ぬ。
この意味において、リズムは音楽の基礎であり、
音楽の生命であり、音楽を超えた存在である。

ヨーロッパ音楽を支配する拍子が、機械的な周期的反復であるのに対して、
日本の民俗音楽にはそのようなリズムはほとんど存在しない。
第一、邦楽でのリズムの概念に相当する「間」というものは、
ヨーロッパ音楽にあっては全く存在しない、いわば裏側の概念であり、
東西の時間や空間に対する考え方の対立を、
これほど象徴的に物語っているものはないといえよう。

ヨーロッパ音楽では、音の鳴り始めた瞬間をリズムの基準とするのに対して、
邦楽にあっては音と音との間、つまり休止をもって基準とし、
そこに第一義的な時間的秩序を求めようとする。
日本の民俗音楽におけるリズムの複雑さは、
とうていヨーロッパ音楽の及ぶところではない。